在来品種データベース

「とよみどり」品種情報
生産地大分県国東市安岐町
作物名シチトウイ
品種名とよみどり
学名Cyperus malaccensis Lam. ssp. monophyllus (Vahl) T. Koyama
現地での呼称しっと、しちとうい(七島藺)
写真七島藺の栽培風景@大分県安岐町2019-08-18 七島藺の断面@大分県安岐町2019-08-18 割かれる前の七島藺@大分県安岐町2019-08-18 二つに割く@大分県安岐町2019-08-18 二つに割かれた七島藺の束@大分県安岐町2019-08-18 七島藺の畳表@大分県安岐町2019-08-18(定規は30cm) 七島藺の畳表@大分県安岐町2019-08-18 七島藺の畳表と円座@大分県安岐町2019-08-18 七島藺の草履@大分県安岐町2019-08-18
栽培方法3月に前年栽培した畑の表面を焼く(床焼き)。掘り起こして苗にする。4月下旬~5月末に代かきした田んぼに植える。活着後はべっこ病(ウィルス病)対策として水抜きして畑にする。80日後に刈り取って火力乾燥する。
品種特性

イグサ科のイの断面は丸形であるが、カヤツリグサ科のシチトウイは三角形。

かつて品種のようなものはなく、3つの在来系統、つまり大粒種(大柄、大七島とも呼称)、中粒種(中生、中七島)、小粒種(小柄、小七島)が実用上、区別して利用されていた(資料2参照)。

現在の品種は昭和8(1933)年に杵築市に作られた大分県農業試験場七島藺試験地で1980年に在来系統をもとに育成された「とよみどり」という品種である(資料1参照)。

由来・歴史

大分のシチトウイの元になったものは1660年と1661年に日出藩の長谷川伝兵衛が薩摩から七島藺の技術と苗を持ち帰ったのが最初であるといわれている。その後も1663年に商人の橋本五郎右衛門がトカラ列島から苗を持ち帰ったともいわれている。杵築藩が栽培を奨励し、国東半島で350年以上にわたって栽培されてきた(資料1参照)。

2013年5月、杵築市を含む国東半島宇佐地域は「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐地域の農林水産循環」として世界農業遺産に認定された。そのなかの農耕文化・景観の一つとして七島藺が注目されている。

伝統的利用法安くて丈夫ということから、農山村や、商店、炭鉱などで多く使われた。畳はもちろん、耐久性から柔道畳や、耐火性と暖かさからかつて東北地方でいろり周りにも用いられた。
栽培・保存の現状

昭和32年には年間550万枚の畳表が出荷されていたが、現在では千数百枚程度でとどまっている。

シチトウイの需要や市場が減ったわけではないが、栽培と加工に大変な手間がかかり生産が安定しないことや、兼業農家の増加に伴い、シチトウイの生産農家は平成21年9軒、22年には5軒の農家まで減った。

シチトウイで畳表を織っている農家は令和元年現在6戸である。

消費・流通の現状

生産量が限られているので、受注生産となっており納品を数ヶ月から半年程度待ってもらっている。国東のシチトウイでなければいけないというこだわりをもったお客さんにのみ販売している。

収益につながることで、人に喜んでもらうと同時に、関係者が楽しいと思えることを大切にしている。そうでなければ、続かない。

継承の現状

行政や問屋などとともに平成22(2010)年に振興会を、平成25(2013)年に七島い栽培復活継承協議会を発足した。当初は存続していた5軒の農家がやめないように、一方で新規参入者が現れるような取り組みを行った。また5軒の農家も350年の歴史を自分の代で終わらせたくないというのが当初の継続のモチベーションだった。

積極的に新聞やメディアに取り上げてもらうように活動することで、地域内外の認知度が高まりU・Iターンの新規就農者の参加により世代交代が行われており、現在も後継者の呼び込みは積極的に行っている。

栽培や加工における技術向上、また生産者、畳業者、工芸作家、行政などがうまく協力し、ブランド化の成功につながった。

参考資料
  • 大分資料1)大分県杵築市のホームページ「七島藺(しちとうい)とは」および「杵築七島いの歴史」(2015)
  • 大分資料2)一色重夫(1936)大分県の七島藺の栽培(1).農業及び園芸12:507-512.
調査日
  • 2018/8/27
  • 2019/8/18
  • 2024/2/23