高山市国府町で栽培されるナツメの由来に関する直接的な史料はない。しかし、同地には古代から朝鮮半島からの渡来人との人的交流があったことをうかがわせる数多くの事物(古墳時代の甲冑、古代寺院など)が存在しており、天長10(833)年には飛騨国から松の実(大陸ではナツメと同様に不老の食として信仰されている食べ物)を天皇の食として供出されていることや、現在、高山で食されているナツメの甘露煮は中国東北部や朝鮮半島での食べ方と相通じていることなどから、国府町のナツメは古代に朝鮮半島からもたらされた可能性が示唆されている(岐阜資料4)。また第七代飛騨代官の長谷川忠崇が延享年間(1744~48年)に著したとされる「飛州志」には食用の果実として「棗」(なつめ)の記載がある(岐阜資料6)。江戸末期の飛騨國の村ごとの地誌を記した『斐太後風土記 巻十 吉城郡広瀬郷および巻十一 吉城郡吉城郷』(岐阜資料8)には、現在の高山市国府町木曽垣内を中心にナツメの産物記録がある。具体的には宮川の南側では金桶村に、宮川に平行して北部を流れる宮川支流の荒城川流域では鶴巣村、半田村、桐谷村、木曽垣内村、広瀬町村、三日町村、蓑輪村、八日町村、東門前村に産物として「なつめ」の記載がある。
高山市立国府小学校の校歌(1959(昭和34)年12月制定)には「宮川の流れの岸になつめはみのる。さいわいのしるしのように 赤い実が 赤い実が 約束される」と歌われていることから、地域の人々がいかにナツメを大切にしてきたかをうかがい知ることができる。