鳥取資料1によると、弓浜半島では大正時代のはじめから地元の軍隊の栄養野菜として、千住系白ねぎがニンジン、キャベツとともに導入され栽培されたのが同地における白ねぎ栽培の始まりのようである。 1931(昭和6)年、中西秀夫氏(広島県農会から西伯郡農会に赴任。後の鳥取県農業試験場西伯分場長)が山口県王喜地方から導入した千住系ねぎを、当時の先進農家、矢新積善(河崎地区)、野浪明(旗ヶ崎地区)、足立時衛(富益地区)、大谷正一(灘町地区)、柏木碇(外江地区)らが試作したところ、周辺農家の栽培意欲を刺激して生産が急増した。中西を中心とする郡農会の指導で採種組合を作り、選抜育成した「伯州一本葱」と名付けて種子を配布し始めた。 さらに1935(昭和10)年に、県農業試験場西伯分場でも幡原隆治分場長らが千住系合柄に近い「伯州一本太葱」を育成し普及したが、戦争が起こり、栽培が制限されると交雑が進んでしまった。昭和24年ころから中西分場長らが改良を進め、30年ころに本来の「伯州一本太葱」の形質が復活した。それは早生太り軟質、葉色淡く、締りも軟で食味は良いが、店頭における日持ちがやや悪かった。分場は葉が硬く分けつが少ない千住系黒柄の形質を導入して昭和44年「改良伯州2号」を育成した。さらに耐暑性、葉色、葉肉の厚さ、首の締りなどを改良し、1988(昭和63年)に「改良伯州5号」を育成した。 生産者の一人で前鳥取県白ねぎ改良協会副会長の松尾敏正氏は小学生のころ(1960年前後)、弓ヶ浜駅付近にネギの集荷場があり、雪の日に農家が大八車で収穫したネギを運び込む風景を思い出すとのこと。また現在鳥取県にネギ産地があるのは、1935年ころに育成された「伯州一本太葱」系統の歴史に支えられてきたおかげだという。 |